小劇場で演劇を上演する際、チケットを買ってくれるお客様はありがたい存在です。しかし、ごく一部の迷惑客が原因で、出演者やスタッフが心身ともに疲弊してしまうケースを聞き及びます。特定の役者を目当てに毎回のように劇場に足を運び、手作りの怪しい差し入れを渡そうとしたり、感想を言いたいからと女性の出演者を飲みに誘ったりする――そんなギャラリーストーカー的な存在に悩まされている小劇場の劇団の悩みを聞くことがあります。
ジャンルは異なりますが、若い女性の芸術家にしつこく付きまとうおじさんストーカーを描いた猪谷千香さんの名著『ギャラリーストーカー 美術業界を蝕む女性差別と性被害』にも触れながら、演劇の現場で活かせるヒントを探っていきましょう。
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小劇場の魅力は、何といっても役者と観客の距離の近さにあります。客席と舞台が物理的に近いだけでなく、終演後にロビーで直接言葉を交わすことができる、そんな親密な空間だからこそ生まれる演劇ならではの体験があります。しかし、その距離の近さは、迷惑客にとっては、役者と個人的に関係を持てるという過剰な期待や勘違いを生む要因にもなります。
特に若い女性の役者や出演者に対して、毎公演のように差し入れを持参し、終演後は必ず話しかけ、SNSでメッセージを送り続けるといった行為は、単なる熱心なファンの域を超えています。チケットを購入してくれること自体は劇団にとってありがたいことですが、そのチケット代が出演者への接近手段として使われているとすれば、それはもはや健全な観客とは言えません。
このような迷惑客の多くは、自覚がありません。「自分は応援しているだけ」「作品が好きで通っているだけ」と本気で思っているからこそ、指摘すると逆ギレされるリスクもあります。
猪谷千香『ギャラリーストーカー』から学ぶ
美術業界の事例を参考にしてみましょう。猪谷千香さんの著書『ギャラリーストーカー』は、美大卒業後、作家として自らを売り出したいと願いギャラリーに立つ若い女性作家につきまとうギャラリーストーカーの実態を複数のケースから描いた作品です。美術業界の特殊なマーケットゆえに、被害から免れることが極めて難しいという異様な実態が克明に記録されています。
孤軍奮闘する若い女性作家につきまとうのは、自称コレクターのストーカーだけではありません。作家の将来を左右するキュレーター、批評家、美術家など、業界内部の権力者によるハラスメントや性被害も後を絶たないとされています。これは小劇場の演劇界にもそのまま当てはまる話ではないでしょうか。役者を目指す若い女性にとって、劇場に来るお客様はファンであり支援者でもあります。そのため、はっきりと拒絶することがキャリアに悪影響を及ぼすのではと怖れてしまうのです。
猪谷さんの取材によれば、ギャラリーストーカーの多くは悪意を持っているわけではなく、むしろ善意で作家を助けていると思い込んでいる人が多いそうです。善意の思い込みこそが最も厄介な点です。小劇場に通い詰める迷惑客も、自分は役者を応援しているだけだと思っているからこそ、注意をすると「なぜ?」という反応を示し、場合によっては逆恨みされることもあるわけです。
迷惑客を見極めるサイン
毎公演のように必ず同じ役者を目当てに来場し、終演後にその役者だけを捕まえて長話をするお客様がいたとしたら、要注意です。劇団の熱心なファンであれば、作品全体を楽しみ、複数の出演者に声をかけたり、スタッフにも感想を伝えたりするものです。特定の役者だけに執着する様子が見られたら、それは黄色信号です。
また、差し入れの内容も要注意です。市販のお菓子や飲み物であればまだ良いのですが、手作りの料理や飲み物を持参して食べてくださいと無理に押し付けるような行為は明らかにラインを越えています。衛生面の問題もありますし、自分の作ったものを食べてもらうことで関係を深めたいという意図が透けて見えます。
感想を伝えるという名目で、役者を個人的に食事や飲みに誘う行為も問題です。
そして、制作担当者から見えづらいのが、SNSを通じた過剰な接触です。劇場で顔を合わせたことをきっかけに、DMやコメントで毎日のようにメッセージを送ってくる。返信がないのに何度も送り続ける。こうしたデジタル上のストーカー行為も、小劇場の出演者を悩ませる大きな要因でしょう。
出禁という最終手段を考える
これらのサインに気づいたとき、小劇場の制作担当者や劇団の代表が取るべき最初の対応は、記録を残すことです。いつ、どのような行動があったのか、日時と内容を具体的にメモしておきましょう。そして、制作や他の出演者とも情報を共有することが大切です。一人で抱え込まず、「あのお客様、最近ちょっとしつこくない?」とチームで認識を合わせておくことで、対応のブレを防ぐことができます。
それでも行動が改善されない場合には、出禁を検討する時期が来ます。出禁の理由は明確に伝えましょう。「あなたの行動が、出演者に強い不安を与えています」といった具体的な理由を、客観的な事実に基づいて伝えます。もし出禁にした後も、執拗に劇場に来ようとする場合には、警察への相談も視野に入れましょう。ストーカー行為は犯罪です。チケットを買って入場しようとするだけならまだしも、劇場や稽古場の外で待ち伏せしたり、出演者の自宅や勤務先を特定してつきまとうような行為は、すぐに警察に相談すべきです。
予防策としてできること
出禁にまで至る前に、できる予防策もあります。それは、劇場と観客との関係性を明確に定義することです。開演前のアナウンスで「終演後の出演者との接触は、劇場が指定した時間と場所に限ります」と伝えるだけでも効果があります。また、チケット購入時の注意事項に「出演者への過剰な接触や差し入れはお断りします」と明記しておくことも有効です。
さらに、制作スタッフの役割を明確にすることも重要です。終演後にロビーで見守るスタッフを配置し、不審な動きがあればすぐに声をかけられる体制を作っておきましょう。一人のスタッフではなく、複数で対応することで、迷惑客に付け入る隙を与えません。
小劇場は、観客あってのものですが、出演者やスタッフが安全で安心してパフォーマンスを発揮できる環境があってこそです。チケットを買ってくれるお客様はもちろん大切ですが、だからといって何をしても許されるわけではありません。
まとめ
特定の役者や出演者を過剰に追いかけ、差し入れや個人的な誘いを繰り返す行動は、立派なストーカー行為です。猪谷千香さんの『ギャラリーストーカー』が示すように、芸術の世界には、支援者だから断れないという構造が根深く存在しますが、それによって出演者が傷つけられてよい理由にはなりません。
まずは記録を取り、スタッフ間で情報を共有し、必要であれば出禁という措置を勇気を持って実行し、最悪の場合は警察に相談するという段階を踏みましょう。同時に、観客との健全な距離感を最初から定義しておくことで、トラブルを未然に防ぐこともできます。
小劇場で演劇を作り続けるためには、出演者もスタッフも安心して創造に力を入れられる環境が不可欠です。チケットを買ってくれるお客様に感謝しつつも、迷惑客に対しては毅然とした態度で臨む。そのバランスこそが、これからの小劇場に求められる姿勢ではないでしょうか。
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