2026年10月、改正労働施策総合推進法が施行され、職場におけるカスタマーハラスメント、いわゆるカスハラへの対策が事業主の義務として整理されます。これは大企業だけの話ではありません。小劇場で活動する劇団でも、受付や制作をアルバイトでお願いしていたり、出演者やスタッフに業務委託で入ってもらっていたりする場合、どこまで対応すればよいのか迷うことがあると思います。
演劇の現場は、観客との距離が近いのが魅力です。直接感想を聞けることもありますし、改善点を伝えてもらえることもあります。一方で、暴言や過度な要求、SNS上での攻撃など、スタッフや出演者の心を削る出来事が起きる可能性もあります。
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法律上のカスタマーハラスメントは、観客から苦情を言われたらすべて該当するわけではありません。厚生労働省の考え方では、顧客等の言動であり、業務の性質等に照らして社会通念上許容される範囲を超えており、その結果として労働者の就業環境が害されるという三つの要素をすべて満たすものがカスハラになります。
単に「こうしてほしい」「説明してほしい」と求められただけではカスハラではありません。正当な苦情や改善要求には、通常どおり誠実に対応する必要があります。反対に、要求内容自体に理由がなかったり、要求の仕方が暴力的、威圧的、執拗だったりすれば、カスハラになり得ます。電話だけでなく、メール、X、InstagramなどのSNS上の言動も対象になります。
また、顧客等は実際にチケットを購入した人だけではありません。問い合わせをしてきた人、潜在的な顧客、取引先、近隣住民なども含まれます。劇団であれば、観客、チケット購入希望者、問い合わせをしてくる人などを広く想定しておくと安心です。
劇団の形態によって義務の範囲が変わる
劇団とひとことで言っても、株式会社、合同会社、一般社団法人、NPO法人などで従業員を雇っている場合は、改正法への対応は義務になります。任意団体であっても、受付、制作、事務局などを雇用している場合は、原則として義務の対象になります。
代表者一人だけで従業員がいない場合は、雇用する労働者を保護する措置義務という意味では、対象となる労働者がいないことになります。ただし、今後スタッフを雇う可能性がありますし、出演者や協力者を守るためにも、同様の対策を用意しておくことが望ましいです。出演者やスタッフが全員業務委託の場合も、原則として直接の労働者保護義務とは別になります。ボランティアだけで運営している場合も、法定の労働者に該当しなければ直接の義務対象外ですが、同じような対策をしておくことが推奨されます。
労働者には正社員だけでなく、アルバイト、パート、契約社員なども含みます。また、劇団では出演者が出演契約や業務委託契約になっていることが多いと思いますが、このような自社が雇用していない個人事業主等についても、同じようにカスハラから保護する方針を示し、相談があった場合には必要な対応を行うことが望ましいとされています。契約書の名称だけで対象外と判断せず、実態として指揮命令下で働いている場合は労働者性が認められることもあるため、慎重に見た方が安全です。
小劇場の劇団で想定されるカスハラ
劇団では、普通の小売店などとは少し違った事例を想定しておくと役に立ちます。たとえば、「前の客で舞台が見えなかったので確認してほしい」という声は正当な苦情になり得ます。「公演中止なのに返金してもらえないので説明を求める」という要求も正当な要求になり得ます。
一方で、自分が遅刻して入場できなかったのに「チケット代と交通費、さらに慰謝料10万円を払え」と言うのはカスハラになり得ます。「責任者を出せ」と繰り返し数時間電話する、「役者本人をここに呼んで謝らせろ」と言う、受付スタッフに土下座を要求する、「SNSで炎上させる」「劇団を潰してやる」と脅す、同じ内容をメールやDMで数十回送る、制作スタッフや役者の容姿や性別を侮辱する、出演者の住所や電話番号、交際関係を聞き出そうとする、出待ちでつきまとい個人的な連絡先を要求する、受付スタッフを無断撮影してSNSに掲載するといった行為は、状況によってカスハラになり得ます。
観客の要求が間違っているかどうかだけで判断しないことも大事でしょう。劇団側にミスがあり、返金してほしいという要求自体は正当でも、「今すぐ役者本人を連れてきて土下座させろ。SNSで顔写真を晒すぞ」となれば、要求の一部に理由があっても、手段や態様が行き過ぎていればカスハラになり得ます。
2026年10月までに用意したい体制
厚生労働省が示している義務を劇団向けに置き換えると、最低限、いくつかの体制を作ることになります。まず、カスハラに対する劇団の基本方針を作ります。観客からの正当な意見や苦情には誠実に対応する一方で、暴力、脅迫、侮辱、過度な要求等には毅然と対応し、スタッフと出演者を保護するという内容を明記します。スタッフに周知し、可能であれば公式サイトやチケット購入画面にも掲載します。
次に、現場対応マニュアルを作ります。誰が一次対応するのか、いつ制作責任者や代表者へ交代するのか、いつ対応を終了するのか、警察を呼ぶ基準をどこに置くのかを決めます。一人で対応させないこと、管理監督者へ報告すること、必要なら電話を切ったり劇場からの退出を求めたりすること、犯罪行為は警察に通報することも大切です。
スタッフ向けの相談窓口も決めます。相談担当者をあらかじめ決めてスタッフに知らせます。外部委託を利用する方法もあります。
発生時に事実確認できるようにする準備も必要です。日時、場所、観客、発言内容、対応したスタッフ、目撃者、メールやDM、電話記録等を記録します。被害を受けたスタッフを観客から離すことも重要です。担当者を交代する、複数人対応にする、その日の受付業務から外す、必要に応じて心身のケアを行うといった対応が考えられます。
再発防止のために、事案を記録し、どこでエスカレーションしたかなども確認します。悪質な観客への措置もあらかじめ決めておきます。警告、今後のチケット販売拒否、公演への入場拒否、警察への通報、弁護士対応などの基準を作ります。相談者のプライバシーを守り、相談したことを理由に不利益に扱わないことも欠かせません。面倒な客を報告した受付スタッフのシフトを減らすような対応はしてはいけません。
公演当日の対応フロー
劇団では、受付担当者にカスハラかどうかを最終判断させない方がよいです。実際には、受付スタッフから制作責任者や当日責任者へ、そこから劇団代表へ、必要に応じて警備、会場責任者、警察、弁護士へつなぐエスカレーションルートを決めておくのがよいでしょう。
たとえば観客が受付で「席が気に入らない。10万円払え。役者を呼んで謝らせろ」と言い始めた場合、受付担当者は要求の正当性について延々と議論する必要はありません。「こちらでは判断できませんので、責任者に引き継ぎます」として担当者を交代させます。責任者が一度説明しても、「説明は聞かない。役者を呼べ」「SNSに晒すぞ」「帰らない」と続くなら、「当劇団としての回答は以上となります。これ以上同様の要求が続く場合には対応を終了します」として線を引きます。それでも居座る場合には退去を求め、暴力や脅迫、不退去等の危険がある場合は会場責任者や警察へ移します。
厚生労働省自身も、十分説明した後も繰り返し要求が続けば一定時間で退店を求めたり電話を切ったりすること、犯罪に該当し得る行為について警察へ通報することを対処例として挙げています。受付や若い制作スタッフが自分一人で最後まで客を納得させなければならないと思わない仕組みを作ることが必要でしょう。
悪質な観客への対応と出禁
観客だから出禁にできないというわけではありません。厚生労働省の指針自体が、警告文、サービス提供拒否、施設への出入り禁止、必要に応じた法的手続を想定しています。したがって劇団でも、特に悪質な観客について、今後当劇団主催公演のチケットを販売しない、既に購入済みの公演について入場を断る、劇団スタッフや出演者への直接連絡を禁止するといった対応を検討できます。
小劇団ならここまで作ればかなり実用的
10人、20人規模の小劇場劇団で、巨大企業のような制度を作る必要はありません。実務上は、A4で1~2枚のカスハラ基本方針、A4で2~4枚程度の現場対応マニュアルくらいでも、きちんと運用できるものにできます。
特にマニュアルには、受付スタッフは判断しなくてよい、こうなったら責任者へ交代、こうなったら対応終了、こうなら110番、出演者本人には対応させないという具体的な線引きを書くことが小劇場の劇団では良いと思います。
厚生労働省が2026年10月1日から義務として整理している内容も、方針、対応方法、相談窓口、適切な相談対応、事実確認、被害者への配慮、再発防止、悪質事案への対処方針、プライバシー保護、相談を理由とした不利益取扱いの禁止という構成になっています。
まとめ
2026年10月の施行に向けて、小劇場の劇団でもカスハラ対策を準備しておく必要があります。ただし、これは観客の正当な意見や苦情を拒否するための法律ではありません。観客と近い距離で作品を作る劇団だからこそ、どこからが行き過ぎなのかをあらかじめ決め、スタッフや出演者を守る仕組みを持っておくことが大切です。
基本方針、現場対応マニュアル、相談窓口、事実確認の記録、被害を受けた人のケア、再発防止、悪質な観客への対応、SNS対策。全部を一度に完璧に作る必要はありません。まずはA4数枚の基本方針とマニュアルから始めて、公演ごとに見直していくだけでも大きな違いがあります。安心して舞台づくりに集中できる環境を整えていきましょう。
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